好生館の歴史

1758年(宝暦8年)手洗川刑場(萩市椿東中之倉)で男子腑分の剖見ー栗山孝庵(萩市医師会創立50周年記念として石碑)
1759年(宝暦9年)萩市大屋刑場で女体解剖-栗山孝庵
1849年(嘉永2年)南苑内に医学館を新設。
1850年(嘉永3年)医学館を好生館改称。
1859年(安政6年)好生館を明倫館内に移転、好生堂と改称。
1861年(文久元年)好生堂、瓦町に移転。
1866年(慶応2年)藩庁の山口移転に伴い好生堂は、山口好生堂と好生堂新分館に分けられる。
1881年(明治14年)明治8年を創立の起源とし、萩及びその付近を区域とする萩医学社が設立されていたが、医学社の名称が廃止され、好生社を設立。
1889年(明治22年) 好生社は旧藩主毛利公よりの寄付百円に阿武郡在住の医会会員の寄付金を加え、瓦町一番地の好生堂跡地に会館を建設、好生館と称す。
1896年(明治29年) 好生館にて萩医会開催。
1917年(大正6年)萩医会を財団法人とし好生社社長村田文庵より登記公告する。
1930年(昭和5年)好生館改築を萩医会で決定、臨時総会で協議、決定。
1931年(昭和6年)新年初会で好生館新築落成祝賀会開催。
1932年(昭和7年)萩町の市制施行により阿武郡医師会より、萩市医師会として分離。
法人の萩市医師会を結成。
1933年(昭和8年)萩医会を解散、財産を全部移譲。
1972年(昭和47年)好生館の老朽化と医師会の事業拡大のため、好生館の土地の売却を決定。更地とするため、6月好生館解体、玉木病院の駐車場に貸す。
1973年(昭和48年) 田村不動産と平安古町(現萩市地域医療連携支援センター)の土地と好生館跡地との無条件交換を総会にて決議。
1975年(昭和50年) 長北医療センター(萩市平安古町)落成。
萩市医師会、萩准看護学院も移転
2013年(平成25年)長北医療センターの解散に伴い、建物を解体。
同じ場所に萩市地域医療連携支援センターを建設。同センター内に萩市医師会移転。

好生館の鬼瓦

幕末に毛利藩は、医家の援助を推進し、栗山孝庵等を京都や長崎に遊学させていたが、1849年に南苑内に医学館を新設し、医学徒の養成を図った。
その後、幕末の変動の中で名称や場所の変更を度々繰り返したが、常に萩町をふくむ阿武郡の医師の心のよりどころであった。
1932年の萩市市制施行とともに、阿武郡医師会より萩市医師会として分離、萩市瓦町一番地に好生館として正式に萩市医師会の財産となった。
1972年(昭和47年)に好生館の老朽化と医師会の事業拡大のために売却を決定。
1975年、萩市医師会は、現在地に新築移転。
瓦町より解体移転の際に記念として移植した御柳(ぎょりゅう)やなぎは無事に根付いたものの、好生館の玄関を飾っていた鬼瓦は、解体の時に破損し、再三修理を試みたが成功できなかった。
2001年、考古学専攻の柏本朝子さんの手により無事に復元された。
1759年に栗山幸庵によって行われた、我が国最初の女体解剖の精密な極彩色の絵図とともに、この瓦は毛利藩の遺産として、萩市医師会の宝となった。

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